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雑記帳
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大東亜戦争ニュース・2015/ 12・11 10・9
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大東亜戦争ニュース・2015/7
2014・9・29 ユーチューブ 必見 
ポツダム宣言を現代語訳してみた
「コメント」
ナシ
2014・7・2 ユーチューブ 
【KSM】誇りある「大和魂」を目覚めさせる言葉集。こんなにも日本は愛されている
大東亜戦争を知る前に上の動画を確認頂きたい。
大日本帝国が大東亜戦争を戦った理由が明確になっている。
2015・8・10 京都新聞 
核兵器は人類に不要 被爆地撮影、故米兵の思い出語る
「記事内容抜粋」
原爆投下直後の広島、長崎両市を撮影した米海兵隊カメラマン、故ジョー・オダネルさんとの思い出を、親交の深かった奥羽キリスト教センター(盛岡市)の元館長山崎真さん(77)が語る講演会が9日、滋賀県東近江市八日市金屋2丁目の八日市図書館であった。
山崎さんは1992年にキリスト教会同士の交流で訪れた米国・テネシー州でオダネルさんに出会った。
当時、オダネルさんは残留放射能の影響で体調を崩す中、「核兵器の恐ろしさを伝えたい」と、長年しまい込んでいた被爆地の写真の公開を模索。しかし、米国で原爆は「戦争を早く終わらせるために必要だった」と肯定的に評価され、批判にさらされたという。
オダネルさんは、亡くなった弟を背中に背負った「焼き場の少年」など10枚ほどの写真を山崎さんに見せた。
長崎の爆心地を撮った写真には「大地に何も残っていない。
こんなことが許されてよいはずがない」と話したという。
山崎さんらの計らいで92年に日本で初公開され、以来、全国各地で100回近く写真展を催してきたという。
山崎さんは「核兵器は人類にとって不要と訴え続けたオダネルさんの強い意志を知ってほしい」と話していた。
 
核廃絶はどう考えても今は無理。
国際法に原爆使用は戦争犯罪と議決すればいいい。
2015・8・9 産経ニュース (1/2ページ) 上海=河崎真澄 【歴史戦】
中国、上海ユダヤ難民資料を記憶遺産申請へ 旧日本軍が保護の史実を隠蔽 「抗日戦勝70年」の一環に
「記事内容抜粋」
】戦前に欧州を追われ、上海に逃れてきた3万人近いユダヤ難民の資料を「世界記憶遺産」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)に登録する申請作業が中国で進んでいることが8日、関係者の話で分かった。ユダヤ難民は旧日本軍が当時、上海北部の日本人居留区に「無国籍難民隔離区」を置いて保護した経緯があるが、中国側はこうした事情をほぼ封印し、「抗日戦争勝利70周年」の一環として、中国がユダヤ人保護に貢献したかのように国際社会にアピールする考えだ。
中略
日本がユダヤ難民を保護した理由として、上海社会科学院歴史研究センターの王健副所長は、「旧日本軍がユダヤ難民を当時の満州などに移住させて利用しようとした『河豚(ふぐ)計画』が背景にある」とみている。
中国は昨年6月、「南京事件」と「慰安婦」を世界記憶遺産に登録申請し、日本政府が反発している。
 
愚かなり、シナ人。
シナ人が考えそうなことであるが、大日本帝国はユダヤ人ばかりでは無い、ポーランド人も保護した。
秘密にしている訳では無く、日本人がそれだけ奥床しいと言う事を証明している事案である。
シナ人よ、この事案をネタにまたまた嘘を捏造するのか? 自ら己等の馬鹿さ加減を世界に知らしめるだろう。
2015・8・9 FNN 
太平洋戦争中、ハワイにあった日系人収容所について取材しました。
「記事内容抜粋」
戦後70年を鍵に、今を読み解くシリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
日本からハワイに移住した日系人の一部は、太平洋戦争中、「日本人の血が流れている」というだけの理由で、収容所に入れられました。
ハワイで最も大きな収容所の知られざる歴史について取材しました。
中略
収容所の跡地の発見者であるクラハラさんは、オバマ大統領が「跡地を史跡に指定する」と発表した際、涙を流したという。
その後、ホワイトハウスで、オバマ大統領との面会を果たしたクラハラさん。
「収容所を忘れてはならないと思う人々の念があったからこそ、収容所の史跡指定が実現した」と話している。
 
オバマは何故、謝罪しないのか? これがアメリカ人、戦争が止まない原因でもある。
補償を受けたのだろう。
2015・8・9 NNN
長崎 きょう70回目の「原爆の日」
「放送全内容」
長崎は9日、70回目の原爆の日を迎える。爆心地に近い平和公園では平和祈念式典が開かれる。
原爆が投下され多くの人が水を求め亡くなったあの日から70年。
8日、平和公園では平和祈念式典で原爆犠牲者に捧げる「献水」用の採水が行われ、小学生から高校生の代表3人が水を汲みあげた。
  西浦上中学校3年・楠田夢翔さん(14)「未来の子どもたちに伝えるのは私たちの世代だと思う」
  長崎商業高校2年・梶聖菜さん(17)「水というものがどれだけ大切かと考えながら採水しました」
被爆70周年の平和祈念式典は9日午前10時35分から行われ、長崎市の田上市長は平和宣言で安全保障関連法案に言及し、政府に対し国会での慎重な審議を求める。 
2015・8・8 ZAKZAKby夕刊フジ 重要 
【戦後70年と私】占領政策の真実 間違いに気付いていたマッカーサー ケント・ギルバート氏
「記事内容抜粋」
70年前の終戦直後、日米関係は、お互いが完全な対立軸からスタートした。
米国は、大日本帝国とは、軍国主義の独裁者が神道という宗教を利用して国民を統率する、非民主的国家であり、世界征服をたくらむ野蛮で好戦的な民族の国だと考えていた。
日本の占領政策、言い換えれば「保護観察処分」は、危険な日本を制度面と精神面の両方から矯正する趣旨で始まった。
東京裁判(極東国際軍事裁判)を通じたABC級戦犯の処罰や、戦争の贖罪(しょくざい)意識を植付ける「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」、日本国憲法第9条も一貫した趣旨に基づいている。
中略
最高司令官を解任されて帰国したマッカーサー元帥はワシントンに呼ばれ、1951年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で証言した。
  「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security(=日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだった)」と。
 
アメリカ人の考え方は、愚かで浅はかである。
日本の神道をイスラム教と同じ扱いをしたのだろうか? 大日本帝国が戦った大東亜戦争の目的を知った時点で、自ずと理解出来るハズ、大日本帝国の目的を無視した。
イギリスとアメリカは間違いなく日本人への人種差別から、戦争を仕掛けたのだが、この裏にいたのがコミンテルンである。
その残骸が日本共産党でもある。
2015・8・7 産経ニュース (1/9ページ) 【戦後70年~昭和20年夏(3)】
慰霊の心置き去りに 原爆ドーム横で「安倍は出ていけ!」 原水爆禁止運動は社共の主導で政治闘争化
「記事内容抜粋」
これに核禁会議は「大会趣旨を逸脱した」と反発し、25年以降の共催を断った。核禁会議長崎議長の松尾敬一(70)は「核兵器廃絶を世界に訴える場を相も変わらず政治運動に利用するとは」と嘆いた。
中略
翌24年の平和記念式典では、菅と同じ民主党の野田佳彦が首相として出席したが、会場には「関電大飯原発の再稼働をやめろ。
野田は帰れ!」とスピーカーの怒声が響いた。
市民の多くがこのようなつらく悲しい経験をしたが、戦後しばらくは生きていくのがやっと。
反核平和運動は盛り上がらなかった。
24年に開かれた平和市民集会は300人規模にすぎない。
それが終戦から9年後、ある事件を契機に運動に火が付いた。
中略
医師となり、「平和と安全を求める被爆者たちの会」代表として地道な活動を続ける秀はこう語った。
「被爆地の復興は苦しみを乗り越え、黙々と働き続けた人たちによってもたらされたんです。反米反日は関係ない。先人への感謝の気持ち、犠牲者を慰霊する心があるならば8月6日に政治問題を騒ぎ立てることなどあり得ないはずです」
 
左翼の政治的欲望が原爆被爆犠牲者を敗戦ビジネスへと誘導した結果、広島に左翼が蔓延った原因だろう。
被災者は今の広島の状況を嘆いている人々も多かろう。
2015・8・6 産経ニュース 
被爆70年 「過ちは繰り返しませぬ」 誓うべきは核保有国である
「記事内容抜粋」
広島は被爆70年の「原爆の日」を迎えた。
人類が初めて体験した核兵器の惨禍を知る被爆者の平均年齢は今年、80歳を超えた。
遺族も高齢化している。
長崎とともに被爆地が訴え続けてきた「核兵器廃絶」は、いまだ道筋が見えない。
ロシアのプーチン大統領は、昨年のクリミア併合の際に、あろうことか核使用の準備も指示したと述べた。
核戦力の増強を図る中国は、海洋覇権を狙い周辺国に脅威をばらまいている。
北朝鮮は変わらず核開発に狂奔する。
  ≪慰霊の政治利用許すな≫
中略
5年に1度の核拡散防止条約(NPT)再検討会議は成果なく終わり、核軍縮・不拡散の交渉は停滞している。
脅威が存在する現実を直視せねばならない。
来年の伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)に先立つ外相会合は広島が舞台となる。
この機会に、ホスト国で唯一の被爆国の日本が果たすべき役割は大きい。
 
広島原爆記念公園の碑文を目にしたのは小学生時代、主語のない碑文に「誰が!」と思った事を未だに覚えている。
今だから言えるが、この時、私が先生に「誰がですか?」と質問すればよかったと思っている。
先生がどう反応したのか? 興味がある。
しかし、これは昔話、私が後悔している一つである。
日本から嘘を無くそうよ! 
2015・8・5 産経ニュース  【戦後70年~昭和20年夏(1)】 
街が一瞬で消えた…紫電改操縦士が見た原爆の惨禍 トルーマンが突きつけたポツダム宣言の真意とは…
「記事内容抜粋」
昭和20年8月6日午前7時45分、22歳だった第343海軍航空隊(通称・剣部隊)少尉、本田稔=大津市在住=は、兵庫県姫路市の川西航空機(現新明和工業)で真新しい戦闘機「紫電改」を受け取り、海軍大村基地(長崎県大村市)に向けて飛び立った。
高度5000メートル。
抜けるような青空が広がり、眼下には広島市の街並み、そして国宝・広島城が見えた。
その瞬間だった。
猛烈な衝撃にドーンと突き上げられたかと思うと紫電改は吹き飛ばされた。操縦桿(かん)は全く利かない。
必死に機体を立て直しながら地上を見て驚いた。
 「街がない!」
広島の街が丸ごと消えていた。
傾いた電柱が6本ほど見えるだけで後はすべて瓦礫(がれき)。
炎も煙もなかった。
やがて市中心部に真っ白な煙が上がり、その中心は赤黒く見えた。
白い煙は猛烈な勢いで上昇し、巨大なきのこ雲になった。
 「弾薬庫か何かが大爆発したのか?」
そう思った本田は大村基地に到着後、司令部に事実をありのまま報告したが、司令部も何が起きたのか、分からない状態だった。
中略
トルーマンは死ぬまで自らの行為を正当化し続けた。58(昭和33)年2月、米テレビで原爆投下についてこう語った。
 「日本への上陸作戦には150万人の兵力が必要で25万人が戦死すると推定された。だから強力な新兵器を使用するのに何ら良心の呵責(かしゃく)を感じなかった。夜もぐっすり眠れた…」
 
人種差別、東洋の黄色い猿、憎くて憎くてたまらず仕掛けた大東亜戦争、アメリカ人に良心、奴隷解放からたかが70年足らず、良心の欠片もあるハズが無かろうに・・・アメリカが大日本帝国の戦歴に事後法と多くの嘘を持ち込み断罪した事からも容易い推測である。
2015・8・4 産経ニュース
戦後70年に思う 「英霊」に恥じない日本の創造を 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
「記事内容抜粋」
  《「明治の精神」につながる来歴》
6月1日に町村信孝前衆院議長が70歳で亡くなったとき、もう10年くらい前、フジテレビの「報道2001」に出演された際に語られた印象深い言葉を思い出した。 
靖国のことを問題にしていたときだったが、町村氏はこういう風に政治の問題として議論の対象にしてしまうのは、英霊に申し訳ないことだと思っているという意味のことを言われた。
これは、「戦後70年の今日の日本における、大東亜戦争についてのあれこれの言説」 に対する頂門の一針ともいうべきものである。 
「英霊に申し訳ない」という感覚が欠如したところで云々(うんぬん)される言論は、内容の如何(いかん)にかかわらず、この一点だけで、歴史に対する不敬なのである。
  《「平和的腐敗政策」を怖れる》  《失われた独立自存の矜持》
中略
山田誠也青年が「一生忘れ得ぬ声」といった玉音放送の原盤が公開された。
この「悲痛な声」は「歴史の決定的瞬間」の記録である。
8月15日にはこの日本の歴史の奥底からの「声」を謹聴して、戦後の原点にたち返り、今度こそ「英霊」に対して恥ずかしくない「鋼鉄のような日本」を創造することを決意しようではないか。
 ※日本は今、平和的腐敗の真っ只中である。
誰の責任なのか? それは心無い負け犬根性丸出しの敗戦利得者である。
戦後70年、敗戦利得者は嘘を用いて敗戦利権を生み育て拡大し続けている。
それが今の日本の姿である。
2015・8・3 産経ニュース (1/4ページ) 【正論】 
戦後70年に思う 「終戦の詔書」に残る深い傷痕 東京大学名誉教授・小堀桂一郎
「記事内容抜粋」
先帝陛下の「終戦の詔書」を奉戴してより満70年の記念日が近づいて来る。
この詔書を斯かる題で呼ぶのは〈吾等は…日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見一致せり〉とのポツダム宣言の冒頭句を受けた形で陛下が戦争を終結する手続に着手せよ、との勅命を政府に下し給うたと見る故に名づけた事である。 
  ≪国民の耳に達した玉音放送≫  ≪最大の眼目は何だったか≫  ≪「義命」知らぬ戦後政治≫
中略
ところがこの詔勅文案が8月14日午後、詔書正文を決定する最後の閣議にかけられた段階で〈義命〉といふのは辞書に載つてゐない難しい語だとの苦情が出て削除され、代つて現行本文の如く〈朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所…〉といふ表現に替へられ、〈万世の為に太平を開く〉といふ究極の字眼はその大前提を失つて宙に浮いてしまつた。
事情を知つた安岡氏は〈学問のない人にはかなひません〉と長大息したが後の祭だつた。
以上の経緯は最近安岡氏の門弟筋の関西師友協会が編纂した『安岡正篤と終戦の詔勅』(PHP研究所刊)に詳しい記述があるので正確な理解を期したい向は参照されたい。
いづれにせよ、この字句の改変によつて先哲の苦心の修辞は台無しになつてしまひ、戦後の政治は〈義命ノ存スル所〉には関心を向けること無く専ら〈時運ノ趨ク所〉に追随して流されるがままになつてしまつた。
安岡氏の嗟嘆(さたん)は筆者も心中深く共有するところである。
 
雑記帳の作成を始め多くの事実を知った。
今思えば、己が宝飾品業界に携わり、何も結果を出せぬまま、人生の終末に近づきつつあるが、事実を知る事の重要性を今更ながら認識している。
事実を知る喜びを味わい爽快感がある。
江戸時代、明治、昭和、平成と日本人の考え方が大きく変化した。
いい方ならいいが、間違いなく悪い方へと変わっている。
これがアメリカの民主主義、新自由主義なのか? 何かが違う。
子供の頃、爺さん、婆さん、親父、お袋から、嘘を言うな、正直に生きろと育てられたが、この世の中、嘘だらけ。
嘘を嘘だと言えない世の中、腹立たしい限りである。
2015・8・3 遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士
兵力の10%しか抗日に使うな!――抗日戦争時の毛沢東
「記事内容抜粋」
習近平総書記は中共中央政治局の抗日戦争に関する学習会で「歴史資料の収集と整理」をするよう指示したが、抗日戦争時、毛沢東が中共軍の兵力の10%しか抗日に使ってはならないと言ったことを正視できるだろうか?
  ◆兵力の10%しか抗日戦争に使ってはならないと命令した毛沢東
    中日の戦いは、我が党の発展にとって絶好の機会だ。われわれが決めた政策は「70%は我が党の発展のために使い、20%は(国民党との)妥協のために使う。残りの10%だけを対日戦争のために使う」ということである。
  ◆情報の信憑性を求めて台北へ
この情報は1977年に梅良眉氏が著した『対日抗戦期間中共統戦策略之研究(対日抗戦期間における中国共産党の統一戦線戦略の研究)』(正中文庫)の第三章第四節「毛沢東が八路軍に出した秘密指示」(41頁~42頁)に書いてある。
ただ、この情報には引用文献があり、そこには
    ●『剿匪(しょうひ)戦史』第十一冊、1035頁(剿匪:中共掃討。蒋介石側から見れば中共は政府への反逆者なので匪賊と称していた。共匪とも)
    ●『中共党的策略路線(中国共産党の戦略路線)』、張浩之講演原稿付録  とある。
  ◆百団大戦を戦った彭徳懐は粛清された
  ◆習近平総書記のスピーチ
    中国共産党の重要な役割が中国人民抗日戦争を勝利へと導いた要などの重要な問題に対し研究を行うと同時に深入りした解釈をするべきだ」
中略
中国共産党が抗日戦争で果たした役割が、どのようなものであったか? 冷静に科学的に研究していく勇気を中国は持ってほしい。
それは決して日中戦争を起こした日本を正当化することにはつながらない。
しかし中国が「中国共産党こそが抗日戦争の前面で戦い、抗日戦争を勝利に導いた」として歴史認識カードを日本に突きつければ突きつけるほど、日本では嫌中家が増え、中国が批判している「日本の右傾化」をうながす。
中国は本気で日本の右傾化を嫌っているのだろうか?
もしそうなら、「中華人民共和国は抗日戦争中、第一線で戦っている国民党軍を影からやっつけ、1945年8月15日以降は真正面からやっつけて、1949年10月1日に誕生した国である」ことを、直視すべきだろう。
 
毛沢東は、国民党軍に狙いを定め兵力を温存し、大東亜戦争が終結す時を辛抱強く待っていた。
毛沢東は大東亜戦争終了と同時に、シナ大陸の覇権を賭けた戦争へ突入するのだが、そこに現れたのが、蒋介石を捨てたアメリカである。
アメリカはこの時、何を考えたのか? 毛沢東に軍事援助を開始する。
後にマッカーサーは、この毛沢東への軍事援助が、アメリカ最大の過ちと議会で証言している。
数日前、アメリカ国務省だったか? 戦後70年の軍事パレードにシナからアメリカへの招待状が届いていない事を明かした。
アメリカを招待すれば、抗日戦勝70周年が嘘とバレる。
抗日70周年は嘘なのだが・・・シナは嘘を積み重ねて行くと、何時か、シナ共産党が綴る歴史が嘘とバレる日は近いだろう。
2015・8・2 時事通信 
中国が指定した日本人戦犯
「記事全内容」
   【第1次(1945年10月)】
▽土肥原賢二(奉天特務機関長)★▽谷寿夫(第6師団長)▽橋本欣五郎(陸軍大佐)★▽板垣征四郎(陸相)★▽畑俊六(中国派遣軍総司令官)★▽東条英機(陸相・首相)★▽影佐禎昭(中国派遣軍総司令部付)▽酒井隆(第23軍司令官)ら11人
   【第2次(46年1月)】
▽南次郎(陸相)★▽荒木貞夫(陸相・文相)★▽平沼騏一郎(首相)★▽阿部信行(首相)▽米内光政(海相・首相)▽小磯国昭(首相)★▽嶋田繁太郎(海相)★▽広田弘毅(外相・首相)★▽松岡洋右(外相)★▽東郷茂徳(外相)★▽梅津美治郎(関東軍総司令官)★▽松井石根(上海派遣軍司令官)★▽寺内寿一(陸相)▽牟田口廉也(第18師団長)ら21人
(注)★は極東国際軍事裁判でA級戦犯として起訴。 
 
※時事通信に物申す! 中国ではないだろう、嘘を記載するな! 中華民国の蒋介石だろう! シナ共産党と中華民国を一緒にするな! 時事通信は何か意図があるのか? この記事を書いた記者は名を名乗れ! 無責任な記事を配信するな。
2015・8・2 時事通信 注目記事 
戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止―蒋介石が早期決定・中国
「記事全内容」
日本との戦争最終局面の1945年6月、当時中国を統治した中華民国・国民政府が作成した日本人戦犯リストのトップに「日皇裕仁」(昭和天皇)が掲げられたが、終戦直後の9月のリストからは消えていたことが分かった。
蒋介石主席の意向で決まったもので、連合国・米国に追随する方針のほか、共産主義の拡大防止という背景があった。
米スタンフォード大学に保管される「蒋介石日記」でも同年10月下旬、「日本戦争犯罪人を既に裁定した」と記されており、終戦後の早い段階で「天皇免訴」が決定していた。
時事通信が中華民国の外交文書を公開する台湾の「国史館」や国民党史料を所蔵した「党史館」で入手した複数の戦犯リストや内部文書のほか、「蒋介石日記」の記述で判明した。
国民政府は終戦前から、戦犯リスト策定に着手しており、45年6月に軍令部が「侵戦(侵略戦争)以来敵国主要罪犯(犯罪人)調査票」を作成。
戦犯トップに「陸海空軍大元帥」として「日皇裕仁」を掲げ、「侵略戦争の主犯・元凶」と明記した。
日本の軍国主義による侵略の根源が天皇にあるとの見方は中国で根強く、議会に相当する民意機関「国民参政会」も7月17日、「天皇を戦争犯罪人に指名する」決議を可決した。
これに対して蒋介石は「日記」で9月21日、「当面の急務」として「戦争犯罪人(決定)」を挙げ、10月8日には「外交急務」として「日本軍戦争犯罪人の決定」と記した。
同月14日に東条英機(元首相)ら12人を「特務工作の悪事を尽くした」として戦犯指定した。
「日記」からは蒋介石の意向が選定に反映されていたことが分かり、9月の戦犯リストから天皇の名前は除外されていた。
蒋介石が「戦争犯罪人決定」を「急務」とした10月8日、国民参政会の決議に対し、戦犯問題を調査した司法行政部と外交部は天皇の戦犯認定について「蒋主席とトルーマン米大統領が、日皇の運命は日本の民意が自ら選択すべきであると共に表明した」と否定的な方向に傾いた。
また当初、天皇を戦犯リストに掲げた軍令部は「皇室は将来的に日本の侵略国策を復活させる源泉だ」としつつ、「同盟国(連合国)によるポツダム宣言の円滑な命令執行と、共産主義勢力拡大の防止」のため、天皇免訴が必要だと方向転換した。
最終的には蒋介石の統括する国防最高委員会が45年12月28日、「日本問題処理の意見書」を決定。
「同盟国の誤解と日本人の反感を回避」するため、「天皇と天皇制存廃の問題は、原則として同盟国の共同意見に従い処理する」との方針を確定した。
蒋介石政権は46年5月からの極東国際軍事裁判(東京裁判)に向け、東条ら計32人の戦犯リストを2回に分けて連合国軍総司令部(GHQ)に提出した。
 ※蒋介石は大日本帝国に講和をちらつかせながら、多くの事を探っていた可能性もある。
蒋介石は戦争らしい戦争をしていないが、早くから戦勝国面していたのだろう。
南京大虐殺は蒋介石のでっち上げの可能性は拭い切れない。
戦争犯罪がこの時点で記載されている方がおかしい。
戦争犯罪は事後法、南京大虐殺、大日本帝国のシナ大陸侵略、これらは、カイロ宣言で話し合われた可能性がある。
日本帝国が侵略しただと、天皇を免訴する代わりに濡れ衣を着せたのか? 大日本帝国軍の戦歴の捏造過程が解明される資料はアメリカの図書館に保管されている可能性があるハズである。
2015・8・1 産経ニュース  編集委員 宮本雅史
第2部(4)「戦友の思い伝えよう」 90歳まで生き抜いた知覧の“顔”
「記事内容抜粋」
5月3日、鹿児島県の知覧特攻平和会館で、61回目の戦没者慰霊祭が開かれた。
時折激しく降る雨の中、遺族ら約1000人が参列したが、その中にいるべきはずの人の姿がなかった。
元陸軍特攻隊員で知覧特攻平和会館の初代館長、板津忠正さんだ。
毎年必ず慰霊祭に参列、知覧特攻の“顔”でもあったが、慰霊祭を1カ月後に控えた4月6日、慢性心不全の急性増悪のため90歳で亡くなった。
     ×  ×
筆者が初めて、板津さんに会ったのは十数年前。
遺族らを相手に、身ぶり手ぶりを交えて出撃を控えた特攻隊員の様子を再現する張りのある声は今も耳に焼き付いている。
  「250キロ爆弾を抱えた特攻機は(滑走路の)端から端までいってようやく浮き上がり、上空で編隊を組み、下で見送る整備士、住民に翼を振り開聞岳の方向に飛び去った」
中略
特攻隊をテーマに取材を進めると、平和を享受して今を生きる私たち日本人は、護国という大義のため自らの命をささげた特攻隊員の思いと、彼らが背負っていった当時の日本人の思いも背負っていることに気づく。
英霊に対する感謝、顕彰はもちろんだが、それ以上に継承、そして自問自答を迫られているような気がするのである。
 
日本は、靖国に眠る多くの英霊のお蔭で、世界の多くの国々から恩恵を受けているのである。
シナは嘘つき、日本がシナに加担すれば、世界の国々は日本に失望するだろう。
多くのアジアの国々の方々は、村山元総理を嘆いているのである。
2015・7・31 産経WEST (1/5ページ) 坂下芳樹
戦艦「武蔵」艦長の息子、猪口勇さん講演(上)叔父が「神風特攻隊」と名付けた
「記事内容抜粋」
太平洋戦争で撃沈され、今年3月、フィリピン中部シブヤン海で船体が発見された戦艦「武蔵」。その最後の艦長、猪口敏平(としひら)中将の四男、勇さん(76)が鳥取市で、「戦艦武蔵発見に想うこと」と題して講演した。猪口中将は同市出身で、船体発見以来、市内の墓所には墓参に訪れる人が増えているが、勇さんは父の思い出や武蔵発見に関わる裏話などを語った。講演の内容を詳報で紹介する。
  アメリカとの「地力の差」は歴然だった  父も兄も「記憶にない」遺品で身近に  減るパイロット…「特攻隊」編成へ
中略
叔父は詫間(たくま)という家に婿養子に入っています。
それを遡っていくと、鳥取藩士の中に詫間半録(はんろく)という有名な剣士がいます。
神道無念流を究めて鳥取に帰り、自分で開いた流派が神風流。
それが頭に浮かんだんじゃないですかね。
それで、「神風特攻隊」と名付けた。
みんなも「神風(かみかぜ)と合うからいいな」といって決まったんです。
ですから、鳥取は神風特攻隊とはご縁があります。
 
過去の多くのエピソードが隠されて来たのだろうが、戦後70年になり、ようやくエピソードが明らかにされつつある。
日本は今 世が変わりつつある。
国民が誇りを取り戻す過程にあるのだろが、10年後、20年後、さて、どうなっているのだろうか? アメリカ、シナ、韓国との歴史戦に勝利しているだろうか? 気がかりである。
2015・7・31 産経ニュース 
「たくさんの人が船から落ちていった」浮島丸救助の様子語る 「舞鶴空襲」市民フォーラム
「記事内容抜粋」
戦後70年を機に、戦争当時の体験や思いを主に市民の立場から語ってもらう「戦後70年市民交流フォーラム」(同実行委員会主催)が、「舞鶴空襲」の日の29日、舞鶴市政記念館ホール(京都府舞鶴市北吸)で開かれた。
同市で多くの市民が一堂に会して戦争体験を語る初めての機会で、舞鶴湾で沈没した浮島丸の救助活動の様子が初めて公の場で語られた。
蒲田忠夫実行委員長は「戦争体験を広く語り継ぐには、一般市民の体験を聞くのが一番だと考えた」と話した。
同フォーラムは、戦争・空襲メッセージ編さん委員会が後援。
同委員会は平成23年に発足し、昭和20年7月29、30日の「舞鶴空襲」の体験談の聞き取りなどを中心に活動を続け、その集大成として平成24年7月に「手記と座談会で語り継ぐ舞鶴空襲」を刊行した。
今年5月にこの本に対する感想などをまとめた「私の『戦争時代』100名の一言集」を出版し、その中から選んだ当時の体験を語ってもらうことにした。
 
悲惨な体験が多く語られている。
アメリカは抗えない船舶をも無差別に攻撃したのであり、戦争犯罪と言わず何というのか?
2015・7・29 産経ニュース (1/7ページ) 編集委員 宮本雅史
第2部(1)「今までは国にあげた子やった」気丈な母の思い、32年間封印
「記事内容抜粋」
昭和52年5月28日。
自宅で長男の三十三回忌法要を終え、墓前で線香をあげようとした瞬間、75歳の母親は長男の名前を繰り返し叫びながら泣き崩れた。
そんな母親の姿はそれまで家族全員、誰も見たことがなかった。
三男が駆け寄り肩を貸しながらどうしたのかと聞くと、「今まで日本の国にあげた子供やったんや。天皇陛下にあげた子供やったんや。でも、今日の三十三回忌でやっとわしの子供になったんや」。
母親はそうつぶやくと、大声を出して墓石にしがみついた。
  少尉の思い永遠に引き継ぐ  「今の平和は兄たちがいたから」 
中略
中西少尉はほかの特攻隊員がそうであったように、護国の使命感だけでなく、両親、兄弟、恋人、教え子ら自分と関わりのある全ての人の思いを背負って出撃、突入したのであろう。
少尉の思いは女性の弔辞にあるように、永遠に引き継がれていかなければならない。
 
左翼よ、反日日本人よ、母の思いが理解できるか? 
教員を辞め皇軍へ、そして特攻隊。
日教組の教員よ、先輩の思いが理解出来るか? 出来まい。
これこそ日本人が祖国を守らんが為、決断した母と息子である。
2015・7・26 産経ニュース 共同 
日独市民が灯籠流し、ポツダムで原爆犠牲者追悼
「記事全内容」
広島、長崎への原爆投下から70年を迎える8月を前に、1945年、当時のトルーマン米大統領が投下命令を下した地とされるドイツ東部ポツダムで25日、ドイツと日本の市民が灯籠流しで犠牲者を追悼した。
灯籠は連合国が日本の降伏条件を協議したポツダム会談の期間中、トルーマン氏が利用した旧宿舎に面するグリープニッツ湖に流された。強風の中、約50個の灯籠が湖面を明るく照らした。
灯籠流しに先立ち、旧宿舎前の「ヒロシマ・ナガサキ広場」では追悼式典が開かれ、主催した市民団体のウーベ・フレーリヒ会長(51)が「犠牲者だけでなく、未来のための追悼だ。
核兵器のない世界を実現しなければならない」と表明。
松井一実広島、田上富久長崎両市長のメッセージが読み上げられ、日独市民の合唱団の歌声が響いた。
 
核廃絶運動なのか? 日独市民が共同! 何かが違う。
2015・7・26 産経ニュース (1/4ページ)ふくしま としお 【日曜に書く】 
「戦後70年」に思うこと 歴史として概括することはいまだ… 論説委員・福島敏雄
「記事内容抜粋」
     ◆清々しい爽快感
 文芸評論家・小林秀雄 「何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した」
 作家・横光利一 「戦はついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ」
 歌人・斎藤茂吉 「昨日、日曜日ヨリ帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヲ開始シタ。老生ノ紅血躍動!」
 詩人・高村光太郎 「この捷報(しょうほう)を聴かれたもうた時の陛下のみこころを恐察し奉った刹那、胸がこみ上げて来て我にもあらず涙が流れた」
 評論家・亀井勝一郎 「維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴すべきときが来たのである」
 社会学者・清水幾太郎 「開戦を知った時、飛んでもないことになったと思うのと同時に、……やっと便通があったという感じでした」
中略
始末が悪いことに、かわりにアメリカという「ウロコ」を自ら貼りつけた、あるいは貼りつけられた。
外発的な力による「皮相上滑り」は、評論家・江藤淳が指摘する閉ざされた言語空間をもたらした。
そこに密やかに注入された「言語」の典型が、たとえば日本国憲法ということになる。
明治いらいの 「皮相上滑り」 によって、現在にいたるまで、知識人たちは相反する物語を、せっせと紡ぎつづけている。
「12・8」のヘソの緒をひいたこの70年を、歴史(ヒストリー)として概括することはいまだにできない。
 
決して、アメリカが正義では無い! 日本人よ、目覚めよ! 日本人はシナ、韓国を決して真似ず、日本から、世界から嘘を無くす努力をし、堂々と生きようではないか。
2015・7・25 産経WEST (1/5ページ) 園田和洋 【歴史事件簿】 
ミッドウェー海戦(4) わずか数分で「蒼龍」「赤城」など3空母が被弾・炎上…予想外の展開に動揺広がる連合艦隊
「記事内容抜粋」
昭和17年6月、ミッドウェー作戦を展開中の南雲機動部隊は索敵機からの「敵空母発見」の知らせに焦りを隠せない。
島への第二次空襲のため魚雷装着の攻撃機を陸用爆弾に転換中の突然の出現だった。
しかも敵の攻撃機がこちらに向け発艦している最中だという。
第一次攻撃隊を収容しながら再び爆弾から対艦用の魚雷へ転換する機動部隊に残された時間は少ない。
「赤城」以下4隻の空母は必死の作業を続けたが、そこに…。
  ここは「正攻法」で  ここは「正攻法」で  黒煙を上げ逃げ惑う南雲機動部隊  
中略
「飛龍で敵空母を攻撃しようと兵力を結集している最中」とする阿部少将の知らせを聞いたときは、絶望のふちにいた山本大将もわずかながら救われた思いをしたのかもしれない。
そして午前11時、山口少将が「われ、航空戦の指揮を執る」と宣言し、小林道雄大尉指揮の第一次攻撃隊24機がアメリカ機動部隊に向け発艦していった。
 
大日本帝国とアメリカの情報量の差を感じてならない。
日本は今も尚、当時と何ら変わっていない。
記事を読むと暗い気持ちになるのは私だけでは無かろう。
2015・7・23 産経WEST (1/4ページ) 園田和洋  【歴史事件簿】
ミッドウェー海戦(3)狂い始めた歯車…南雲機動部隊の“決断” 「第2次攻撃」要請で迫られる「兵装転換」
「記事内容抜粋」
昭和17年6月、ミッドウェー島上陸作戦を前に島への空襲に向かった南雲機動部隊の母艦機107機は、予想以上に激しいアメリカ軍の抵抗に遭う。
島の上空で待ち構える多数の戦闘機と地上から撃ってくる砲火の嵐…。
この結果、基地を完全に破壊できず、隊を率いた友永丈市大尉は機動部隊に再攻撃を要請する。
だが、機動部隊も度重なる空襲を受け、すかさず迎撃する零式艦上戦闘機(零戦)。
ここに日米最大の決戦の火ぶたが切って落とされた。
  予想以上の抵抗で、島攻撃はままならず  よみがえる「セイロン沖での出来事」  ホッとしたのもつかの間「敵空母発見」
中略
先手を取られた赤城の艦橋内で南雲中将と参謀長の草鹿龍之介少将が顔を見合わせた。
すぐに第二航空戦隊司令の山口多聞少将からも 「ただちに攻撃隊発艦の要ありと認む」 の意見が届いた。
山口少将は、島の空襲用に装着した爆弾をつけて甲板上に並ぶ機に可能な限りの零戦の護衛をつけ、アメリカ艦隊を攻撃しようという作戦だった。
 
日本人の甘さなのか? 日本人は学習能力が無いのか?今も尚、情報を大事にしていないのである。
2015・7・21 ユーチューブ 大注目 シナ人にこの事件を問え! 
【水間政憲】済南・通州事件から考える平和安全法制[桜H27/7/21]
「コメント」
現在、国会の内外で激論が交わされている「平和安全法制」であるが、反対派に共通するのは日本侵略史観であり、その結果としてのハンディキャップ国家論であろう。
しかし彼らの歴史観を紐解いていくと、中共のプロパガンダそのままの知的怠慢に閉じこもっており、済南事件や通州事件等での虐殺被害については誠に都合良く排除されている。
今回は、中共へのカウンタープロパガンダを展開している水間政憲氏をお迎えし、虐殺事件を忘れていることの危険性と、日中双方の国民性に基づく相性の悪さについて解説していただくと共に、戦後初となる虐殺犠牲者の慰霊祭について告知していただきます。
 
シナ人の猟奇的虐殺事件である。
2015・7・21 産経ニュース 安本寿久 【戦後70年】 
最後の陸相が遺したもの…阿南惟幾、聖断に従い本土決戦を回避 進む再評価、8月に胸像建立
「記事内容抜粋」
戦後70年。終戦の日を前に、最後の陸相、阿南惟幾(あなみこれちか)大将が再評価されている。
陸相を中心に、終戦の決定から玉音放送までを描いた映画「日本のいちばん長い日」が48年ぶりに公開されるほか、郷里の大分県竹田市では初めての胸像が建立される。
陸相は、本土決戦を主張する陸軍を代表して終戦に反対し続けたが、最後は昭和天皇の聖断に従って賛成に転じ、玉音放送の朝に自決した。
  「反省すべきことは反省し、評価すべきことは評価する時代になったのでしょう」。
遺族はそう話す。
  「大罪を謝す」  父の背中見て  天皇への尊崇  阿南惟幾  宮城事件
 
「反省すべきこと」? 誰が何を反省するのか? 意味深な言葉だが・・・ 大東亜戦争に反省する点があるのか? 強いて言えばコミンテルンから操られた事だろう。
大東亜戦争はアメリカが仕掛けた罠、大日本帝国に非は一点も無い。
大日本帝国は単独で人種差別撤廃とアジア解放を求め欧米列強(白人国家)に戦いを挑んだが、ただ一国アメリカに破れた。
大東亜戦争は、多くの尊い日本人の命を失いながらも目的だけは達成した。
日本人の尊い命が人類に多大な貢献をした。
日本民族でなければ決して成し得ない人類への貢献である。
日本人よ、卑屈になるな、誇りを持て!
2015・7・15 産経WEST (1/3ページ) 薬師寺大輔 【戦争の記憶】
「21歳で死ぬのか」苦しんだ日々…沖縄特攻掩護した元搭乗員「特攻は外道の戦術だった」
「記事内容抜粋」
  特攻機は翼を左右に振って別れを告げた…。
太平洋戦争末期の沖縄戦に参加した元陸軍の戦闘機パイロット、岡本巖(いわお)さん(90)=岡山県倉敷市=は、鹿児島県の知覧飛行場から飛び立つ特攻隊を支援する任務にあたった。
「同期生は命を投げ出して戦ってくれた。
生き残った者として、記憶を語ることが供養だと思う」。
何度もそう繰り返す。
地元の尋常小学校を卒業後、「教師になれ」という父の期待に応えようと、岡山県第一岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)に進学した。
当時、中学の軍事教練担当の配属将校に、東京・市ケ谷の陸軍士官学校への進学を勧められたことが、戦闘機パイロットを目指すきっかけになった。
中略
「戦争に勝たないといけないのは分かる。しかし、特攻作戦は外道の戦術」。
特攻する仲間を見送ったパイロットの言葉は重い。 
多くの仲間を戦争で亡くし、その悲惨さを伝えるため、講演会などで語り続けている。
 ※「特攻作戦は外道の戦術」 こんなことをよく言えるものだ。
特攻を実行した特攻隊員が天国で言うのであれば許しもするが、生きたお前が言うか? 違うだろう。
手厳しかろうが、これも被害者ビジネスだろう。
大東亜戦争に悪人を仕立て上げるな! 
産経WESTは何故、太平洋戦争と記すのか? 大東亜戦争のアメリカ戦だだろう。
正確に記せよ! 
2015・7・11 読売新聞 
アッツ島迫る「玉砕」…米軍上陸直前の写真残る
「記事内容抜粋」
太平洋戦争で1943年(昭和18年)5月、日本軍が「玉砕」したアッツ島(米アリューシャン列島)の米軍上陸直前の様子を撮影した写真が残っていた。
戦闘が始まる前に日本に帰還した元大尉の遺族が保管していた。
最後まで戦って潔く散るとの意味の「玉砕」は、この戦闘で初めて使われた。
写真には日本の守備隊の姿が写っており、この遺族は「多くの関係者に見てもらいたい」と話している。
写真は、飛行場建設の調査のため、43年4~5月、技術者として島に滞在した元陸軍大尉の山口次雄さん(1993年に82歳で死去)がその間に撮影した。
「昭和十八年五月 アッツ島」と題したアルバムには、雪に覆われた島内を視察する守備隊長の山崎保代(やすよ)大佐や、空襲などを受けて損壊した兵舎を片づける兵士らの姿が写った約70枚が貼りつけられている。
中略
今野さんは「アルバムは奇跡的に残ったものだ。
兵士らの生前の姿をご遺族に見ていただきたい」と考えており、公開の方法を民間団体に相談している。
  ◆アッツ島=北極に近いベーリング海に面する南北約30キロ、東西約70キロの小島。
米アラスカ州に属するが、今は誰も住んでいない。第2次大戦中、北米で唯一の地上戦が行われたことなどを理由に1985年、米国の歴史遺産に指定された。
厚生労働省によると、遺骨はこれまで約320人分が収集されている。
 ※アメリカ人の永い虐殺の歴史を考えれば、アジア人の大日本帝国への憎しみと人種差別(黄色い猿)から日本兵を捕虜にする気が全く無かったのではないか?とさえ疑いたくなるのだが・・・アメリカは日本政府が大東亜戦争を検証する事を極端に嫌う原因は、事実がバレる事を恐れているのであろう。
2015・7・11 産経ニュース (1/5ページ) 園田和洋
ミッドウェー海戦(2)意気揚々と大作戦に踏み切った連合艦隊…戦力で劣る米軍は“亡霊”に頼った
「記事内容抜粋」
昭和17年5月、ハワイ攻略とアメリカ機動部隊の撃滅を狙い、北太平洋・ミッドウェー島に向け出撃した日本海軍。
参加艦船は空母6隻、戦艦は大和など11隻を含む計約300隻。
航空機が約1千機、兵力が約10万人と海軍始まって以来の大作戦となった。
一方のアメリカ側は空母2隻に数隻の重巡洋艦と駆逐艦。
ほかは島の航空隊や守備隊などと数では到底かなうものではなく、まるでトラとネコの戦いのはずだったが…。
  手負いの空母「3日で修理しろ」  突貫工事しながら出撃  「米空母接近」無線封止で伝わらず 
中略
4日、日本の輸送船団がミッドウェーから発進した米軍機の攻撃を受け、アメリカ側に今回の行動が知られたことに気づく。
だが、ミッドウェー島の北西約460キロまで迫った南雲機動部隊は5日、「敵の空母はいない」という認識のもと、7日の上陸を目指して島を爆撃する108機を発進させる。
大和の思惑は外れ、南雲部隊は東約400キロにアメリカの空母がいることにまったく気づいていなかったのだ。
空一面が灰色の空に覆われた重苦しい朝だった。
 ※大日本帝国は情報を大事に扱わず、自ら敗戦へと向かったのであろう。
2015・7・11 産経新聞  塩塚保
【戦後70年 大戦を生き抜いた男】ソロモン諸島防衛 地獄の戦場だった 千葉
「記事内容抜粋」
昭和17年12月、駆逐艦「不知火(しらぬい)」の若き乗組員だった石黒隆一(94)=習志野市=は防空隊員として輸送船に乗り込み、南洋のソロモン諸島に向かった。目的地はガダルカナル島。
日米両軍が死闘を展開していた。
日本軍は補給線を断たれ、苦戦。
石黒たちの部隊は援軍に向かうことになった。
途中、ラバウルに立ち寄り、正月を迎えた。
出撃準備を整えて出港直前、命令が変更された。
  -ブーゲンビル島周辺の守備につけ。
ソロモン諸島最大のこの島で、陸海軍は数万人の大部隊を展開していた。
中略
闇夜だった。
迎えの飛行艇が湾に着水した。
石黒ら12人が慌ただしく乗り込むと飛行艇は飛び立った。
  「夜が明けた。眼下に美しい紺碧(こんぺき)の海が広がる。極楽のようじゃった。地獄の戦場から生きて還った」
だが、石黒はさらなる地獄を体験することになる。
 ※安保法制せさえままならない平和ボケした日本では、哀しい事だがこの話、単なる昔話にしか捉えられないだろう。
2015・7・4 産経ニュース (1/4ページ) 園田和洋
ミッドウェー海戦(1) 解読された暗号、軍部の奢りで情報がアメリカに筒抜け
「記事内容抜粋」
昭和17年5月、日本海軍機動部隊は南太平洋・珊瑚海(さんごかい)でアメリカと繰り広げた史上初の空母対決が痛み分けに終わると、息をつく暇もなく北太平洋のミッドウェー島の攻略作戦に乗り出した。
4月に東京がアメリカ空母から発進した爆撃機の空襲を受けたため、急いで防衛線を築き敵空母壊滅の必要性に迫られたからだ。
このため珊瑚海で損傷を受けた2隻の空母の復帰を待つことなく、「4隻の空母」 を中心とした艦隊はミッドウェーに向かっていった。
  帝都空襲  目標は基地か空母か  ずさんな情報管理  
中略
これで目標を一点に絞ることが可能になったアメリカ軍ではあった。
とはいえ5月27日、珊瑚海海戦でダメージを受けて真珠湾に戻ってきた空母「ヨークタウン」の修理に3カ月はかかることで、なかなか埋めることができない日本との戦力差に苦心する。
ちょうど同じ日、海軍記念日を迎えた日本側は、第一航空戦隊の「赤城」「加賀」と第二航空戦隊の「飛龍(ひりゅう)」「蒼龍(そうりゅう)」の空母4隻が広島・柱島から、ミッドウェーに向けて意気揚々と出撃していった。
 ※日本は戦前、戦中、戦後を通じ情報管理がなっていない愚かな国である。
日本は現代、日本の敵国とも言えるシナ、韓国、北朝鮮のやりたい放題、日本政府は集団的自衛権に邁進しているが、これだけで日本を守れると考えているのだろうか?